真田丸紀行 その六 岩櫃城
岩櫃城
旧地名:上野11PV
城史
岩櫃城の築城年、築城者は不明である。
岩櫃城が位置する東吾妻郡は、南北朝時代より上杉氏に属する国人・斉藤氏が割拠していた。
永禄6年、武田信玄は上野に侵出、真田幸隆に上杉方に属す斉藤氏の岩櫃城攻撃を命じる。
城主・斉藤憲広は、地勢を活かし防戦に努めるが、城内に内応者が続出し落城。
岩櫃城は武田氏の支配下となり、真田幸隆が吾妻郡の守護を命じられた。
天正10年、織田信長は甲斐の武田氏を討伐するため、武田領へ侵入(甲州征伐)。
武田氏当主・勝頼は劣勢となり、武田氏家臣・真田昌幸が岩櫃城への退避を勧めた。
昌幸は、その際に岩櫃城南東に勝頼を迎える為の御殿を急造している。
しかし勝頼は岩櫃城に向かわず、甲斐・小山田氏の岩殿城へ向かい、
小山田氏当主・小山田信茂の離反に遭う。
岩殿城へ入城できなかった勝頼は、甲州・田野にて織田方の滝川一益に包囲され自刃し、甲州武田氏は滅亡した。
天正18年、豊臣秀吉の小田原征伐により、北条氏が没落すると沼田評定により北条方に引き渡されていた
沼田城が再び真田領とされた。沼田城には、昌幸の嫡男・信幸が入り、岩櫃城は沼田城の支城とされた。
慶長5年、関ケ原の戦いで真田氏は昌幸・信幸が東軍、西軍に分かれて戦うことになり、信幸は東軍に加勢。
岩櫃城には城代として、矢沢頼綱が入り、防備を固めた。
関ケ原の戦いは東軍が勝利し、信濃の真田領と上野の沼田、岩櫃共に真田信幸が支配するところとなる。
元和元年、徳川家康による一国一城令により、岩櫃城は破却され、岩櫃城は終焉を迎えた。
城郭の見所
岩櫃城は群馬県吾妻郡・岩櫃山(標高802.6m)の山腹に築かれた中世城郭である。
本丸は岩櫃山の山頂を外し、山腹に築かれている。東西に長い長方形の形状で居館と呼ばれ、北西と南西に
桝形虎口を設ける。背後は詰めの丸的な曲輪を配置し、西側は堀で隔てた二の丸等の腰郭が
連続する。本丸、二の丸周囲は横堀と竪堀が複雑に組み合わされ囲繞する。
それらの堀は、通路を兼ね、至る所で複雑に折り曲げられている。
侵入者の突進力を削ぎ、城内からの反撃を企図したものであろう。
山麓に向け、緩斜面状の曲輪(中城)及び段状の曲輪群が築かれるが、後世に改変された可能性がある。
岩櫃城は上野での真田氏の動向を考える上で重要な位置を占める城郭の一つと言えよう。
群馬県吾妻郡東吾妻町郷原1093
JR「群馬原町」下車 徒歩40分
城郭談話会の三宅です。
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