明石城&赤穂城見学会
赤穂城
旧地名:播磨8PV
地勢
赤穂城が所在する兵庫県赤穂市は、県南西端に位置する。現在の赤穂市 は 10km 四方の面積であるが、かつては旧・赤穂郡の一部であり、その 赤穂郡の中心にあったのが当地の赤穂城一帯である。 旧・赤穂郡は北に接する上郡町、東に接した相生市域、更には西の岡山 県の一部を含んだ広大な面積を有していた。昭和 26 年、赤穂市・坂越 町・高雄村が合併しにより赤穂市が発足。その後も昭和 30 年、38 年の 有年村及び岡山県日生町の編入により、現・赤穂市域が形成された。 余談ながら、赤穂郡はというと消滅したわけではなく、上郡町一帯に現 在でも郡名を残している。
歴史概要 赤穂城が築かれるまで
赤穂城はいつ頃に築かれたのかは定かではない。近世の地誌『播州赤穂 郡誌』によれば、享徳年間(1452-1454)頃に赤松氏一族の岡豊前守が加 里屋に砦を築いたとしている。この砦は「加里屋古城」と呼ばれている。 この「加里屋古城」は岡氏が本拠を置いた、現・相生市の岡城の支城的 役割を果たしていたという。このことから、戦国期より戦略上または経 済上の要所として赤穂が重視されていたことがわかる。 近世の赤穂は羽柴秀吉より生駒親正が配され、その後は関ケ原の戦いま で宇喜多秀家が赤穂を領有し代官屋敷を置いていた。 関ケ原の戦いの後に宇喜多氏は改易となり、変わって池田氏が領有する ところとなった。この時期には現在の赤穂城が位置する場所には「掻上 城」と呼ばれる城が築かれていた。堀・櫓・石垣・塀・門を構え、更に 織豊様式の築城技術が駆使された城郭が築かれていたが古絵図より確認 できる。とはいえ、掻上城は現在の赤穂城よりはるかに小規模、かつ簡 素なものであった。
赤穂城の築城
正保 2 年(1645 年)、池田輝興は改易となり、常陸・笠間より浅野長直が 赤穂に入封する。浅野氏は赤穂に城を築くことを企図し、城の縄張りは 甲州軍学の師範である近藤正純に命じた。慶安元年(1648,年)には幕府の 許可を得て、築城に着手し、寛文元年(1661年)までの13年の工期を経て 赤穂城は完成した。
廃藩置県まで
浅野氏は元禄 14 年(1701)年の浅野長矩による江戸城中における刃傷事件 まで、代々城主を勤めた。浅野氏は刃傷事件により改易となり、赤穂城 は幕府に接収されることとなった。赤穂城には、元禄 15 年(1702 年)に 下野国烏山より永井直敬が 3 万 3 千石で入封。永井氏は宝永 3 年(1706 年)に信濃飯山へ移封となり、備中西江原から森長直が 2 万石で入封した。 以降、森氏は 12 代に渡り赤穂城の城主を勤めた後に、廃藩置県を迎えた。
廃藩置県後の赤穂城
明治 6 年の廃城令により、赤穂城は廃城となった。当時の飾磨県により、 赤穂城は競売により払い下げられ、城内の敷地は民有地となった。城内 には田畑や民家が建てられ改変が進み、残されていた建物も荒廃が進ん だ。荒廃した多くの建物はやがて取り壊され、残された櫓も明治 25 年 -27 年頃に、洪水災害復旧用の資材として解体・転用された。大手門桝 形石垣などの普請部分にも一部改変が進み、昭和 2 年には本丸に兵庫県 立赤穂中学が建設される。改変が進んでいく赤穂城であったが、明治時 代後半から赤穂浪士を輩出した城として注目を集め始める。大正 12 年に は大石内蔵助の邸宅跡が史跡に指定され、昭和の中頃より復興運動が活 発化。昭和 30 年には大手隅櫓と土塀、大手の高麗門が復原された。その 後も復原のための用地買収が進み、現在までに多くの建物や石垣の復原 が進んでいる。
日本, 〒678-0235 兵庫県赤穂市上仮屋916−1 市立歴史博物館
JR播州赤穂駅より徒歩15分
城郭談話会の三宅です。
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